絶望の理由
最初のぎこちなさがうすれると、わたしは、Yといっしょにいる時間を、
こころまちするようになっていました。
これは、わたしにとって思いがけないことでした。
かなり幼いころからわたしは人づきあいが苦手で、
ひとりでいるときが、いちばんホッとするタイプの人間でした。
とりわけ、思春期に入ってからの異性とのつきあいは、ひどく苦手だったのです。
二十歳になったころから、わたしも年ごろの男性からお茶に誘われることが多くなりました。
彼らのほとんどが、テーブルについて頼んだコーヒーがくる前に、
自分が親から受け継ぐ資産について話しはじめました。
わたしにはわかっていました。
彼らの目に映っているわたしは、
・美人じゃないが、無難な見てくれではある
・ばかではなさそう
・おとなしそう
・高卒の女だから、大卒の自分なら、学歴にもんくはないだろう。
だから、結婚相手候補として声をかけてみようか…。
つまり、わたしは、
高根の花とちがって十分手がとどくうえ、
このへんなら手を打ってもよい程度の女、
そんなところだったのでしょう。
しかし、彼らの話す内容は、ほぼ例外なく、わたしには退屈でした。
ほとんど、たえがたいほどに。
仕事上の苦労ばなしならまだしも、
わたしにはまったく関心のない、
一般著名人やスポーツ・芸能人のうわさばなし、
ちかごろのテレビ番組についてなどが大半で、
わたしのこころに、相手への尊敬の念など、わきようもなかったのです。
ある業界紙の小さな会社で出あった、W大の文学部出と高身長が自慢らしかった某などは、
一人っ子なので親の財産はやがて全部自分のものになるという話をそれとなくした後で、
いかにも余裕ありげな上から目線でわたしを見ながら、(じっさい、153センチ弱のわたしに対して、某は当時としては破格の180cm近い高身長でしたから、物理的にも、上から目線でしたが、もちろんそれではなく…)
「きみは、足は太目だけど、足首が引き締まってるから、まあゆるせるよ」なんていったのでした。
聞いた瞬間、わたしは頭に血が上り、それからすぐに潮が引くように冷静になりました。
(わたしは、品評会にひきだされた馬?
だいたい、W大出身でこんな小さな業界紙に流れてきたくせに、えらそうに…)
内心、腹立ちまぎれに毒づいていました。
W大の文学部は、
どうせ行けないのがわかっていたのと、生来の怠け者だったのとで、
受験勉強をまったくしなかったくせに、
見栄を張って進学希望のふりをしてたわたしに、
進路指導のときに担任が、
「きみは、この辺ならならまあ受かるだろう」といってくれた大学の学部でした。
しかし、父の失敗で資産を失った家計状態だったので、
大学進学は男子だけという家庭環境でした。
当時W大文学部は入学金が38万円でしたが、
自分で捻出できるはずもなく、受験をあきらめたのでした。
もっとも、受けて落ちたかもしれず、そんな事態を避けられたのは、まあよかったわけですが、
こころのどこかに、受かったかも、という未練がいつまでも残滓のように残っていたのです。
そんないきさつもあって、某のことばに、いっそう腹が立ったのです。
それに、わたしは気づいていました。
男尊女卑が深く根差したこの国の男らは、結婚前の相手を「あなた」と呼んでいても、たぶん、結婚して1か月もしたら、
妻のことを「おまえ」と呼ぶにちがいない。
そして、それは、親密になった証左だと考えるにちがいない、と。
しかし、内心好ましくおもった男性でさえ、
いっしょになって1か月後、「きみ」や「あなた」が、「お前」に変わりそうだと想像したとたん、
高まっていたわたしの心はスッと醒めたのです。
わたしはぜったいに、結婚した相手から、
「おまえ」なんていわれたくなかったのです。
男女平等ということばが、日本のばあい、
まったくのうそっぱちだと、わかっていました。
それも、わたしのように、明治生まれの両親の家庭だからだけじゃないことも。
しかし、自分が結婚しないだろうと考えていたいちばんの理由は、
じつは、なによりも、「自分を知っていた」からでした。
わたしは自分がどんなに怠惰な人間なのかを知っていたのです。
外観の体裁さえなんとかととのえば、そのほかは、まったく無気力で、
好みの本に鼻先を突っ込んでいるほかは、何をする気にもなれない人間だということを。
ほかのどんな理由よりも、自分が実は怠け者だという事実が、
わたしをズルズルと暗い絶望の淵にひきずりこんでいたのです。
ときどき、生きているのさえ面倒でならなくなったりしました。
自分自身で、どうやら自分はうつの状態におちいりやすい人間らしいと、
十代の半ばには、すでに知っていたのです。
自分の前途に暗い未来しか描けないうえ、
人がいつかは死ぬ運命だという現実をかんがえあわせれば、
つらい現実を、なんで生き続ける理由などあるのでしょうか?
わたしの絶望の最大の理由は、「怠惰な自分自身」に嫌気がさしたからでした。
19歳の晩秋
そういうわけで、19歳の晩秋、わたしは50錠の咳止め一瓶を飲みました。
咳止めだったのは、睡眠薬が手に入らなかったからでした。
昭和40年代初め、その1,2年前までは、市販でも売られ、
眠れないといいさえすれば医師が出してくれた睡眠薬が、
規制がつよくなって、一般の人間には、なかなか手に入れられなくなっていたのです。
睡眠薬で眠っているうちに死ねればどんなに楽だろうと思いましたが、
それが無理なのだからどうすればいいかとかんがえて、
図書館で薬学の本のページをくり、
どうやら、咳止めを一瓶飲めば、含有するカフェインで致死量に達すると知ったのでした。
なんとなく、嗜好品であるコーヒーに入っているカフェインなら、楽に死ねそうな気もしていました。
その午後、一瓶の咳止めを飲んだわたしは、
そのころ兄と弟と3人で使っていた6畳に布団を敷き、横になりました。
いったい何月の何曜日だったのか、何時だったのかも、覚えていません。
うすら寒い日で、まだ明るい時間でした。
兄も弟もいなかったので、きっとそういう時を選んだのだろうと思います。
ちょっとした吐き気が、思いもかけない速さでやってきました。
わたしは、布団を出て風呂場からもってきた洗面器に新聞を敷いて、吐いた時の用意をしてから、ふたたび布団に横になりました。
まもなくはげしい吐き気がつぎつぎと波のように襲いました。生き物が、わたしの胃袋をつかんで絞り上げ、暴れているような、激しい吐き気でした…。
洗面器に顔を寄せ、吐きつづけました。強烈なビタミンの匂いがしました。
夜になり、吐き気が遠のき、うとうとしていると、
部屋の引き戸を開けて、10歳前後年上の二人の姉が入ってきました。
入るなり、
「ビタミン臭いわね」
と二人が話している声が聞こえました…。
姉たちは、たぶん、わたしが風邪で薬を飲んで寝ていると思ったのでしょう。
その後の記憶は、まったくありません。
ただ、家族のだれも、私が死のうとしたことに気づいていませんでした。
わたしも、話しませんでした。
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