出合い

月間推理界 出合い

その男はとつぜん、わたしの前にあらわれたのです。

もう半世紀以上もむかしの、その年の11月はじめ。

コピー機のメーカーが家主の、水道橋から歩いて数分の雑居ビルにあったごく小さな出版社の、ありふれたドアを開けて入ってきたのです。廊下にわだかまった、初冬にしてはひどく冷え切った冷たい空気をひきつれて。

やけに背の高いやせた男でした。

 

その男が、その後、19年ものあいだ、わたしのこころの真ん中に居続けることになるなんて、そのときのわたしは知るはずもありませんでした。

そして、まあいろいろあって19年後、

男は、アルコールから逃げだせないまま、51歳という若さでとつぜんこの世を去りましたが、

その後も30年余り、いまにいたるまで、
生きている生身の一人娘とともに、わたしの心の半ば近くを占領しつづけているのです。

 

昔からのいろんな国のオハナシで、
「冷たい空気とともに入ってきた…」ばあい、ソイツはこちらに「なにかしら不幸をもたらす存在」ってことになっています。

この男が、わたしに幸福をもたらしたのか、あるいは不幸をしょい込ませたのか?

わたしはいまだに答えが出せずにいるのです。

わかってるのは、(会えるものなら、もう一度、会いたい!)ってことだけ。

 

もしかしたら、わたしは、いまだに騙されつづけているのでしょうか?

 

 

わたしは22歳でした

11月のその日、
わたしは22歳で、その小さな出版社N書房の出していた「月間推理界」の編集員として、その前の月に雇われたばかりでした。

広くもない雑居ビルの一室には、スチール机でいくつかの島がつくられていて、
その一つ、「月間推理界」の編集員エリアは、四つの机が向かい合わせに並べられていました。

壁を背にしたわたしの隣は、すこし年上の編集担当の女性で、彼女の席は、なぜか新参のわたしよりドアに近い側だったのでした。そのりゆうは、やがてわかりました。

ドアに近い側の島は営業の席で、その営業職の男性と、先輩女性はお付き合い中だったのです。

向かい合った前の机は二人のカメラマンの席でしたが、そのときはふたりとも出はらい、先輩編集員も外出していたので、そのとき、月間推理界の島にいたのはわたしひとりでした。
編集長は女性でしたが、彼女の席はなぜか別の島にありました。

 

「過去の月間推理界を読んでおいて」
編集長が、そういいおいて出かけたので、

わたしは書架に並べられた過去の「月間推理界」の中から適当に選んで引きぬいた数冊を机に積みあげ、
手にした一冊をパラパラページを繰って眺めていました。

じつは、どちらかといえば海外が舞台の翻訳推理小説のほうが好みのわたしの目には、
日本が舞台の推理小説は、すこしものたりなく感じられました。

 

ふいにドアが開き、廊下からの冷たい空気がサッと流れこみ、わたしの足元を包みました。

わたしは、反射的にドアのある左手に顔を向けました。

男がひとり、てくてくという感じで、営業の島のわきを歩いていました。

当時の日本人にしてはめだつほど長身の痩せた男でした。(後日、178センチだと知りました。いまなら、やや高いほうくらいですが、当時の日本人の成人男性の平均身長は165センチだったので、ずいぶん高いほうだったのです。そういえば、メンタリストの主人公)

営業席の男らに、「どうもどうも」という感じで頭を数回小さく下げながら、
挨拶らしい言葉を口の中でつぶやいています。

なぜか営業席の一人が「みやさん、みやさん、おんまのま~えで…」と小声でふしをつけて歌いましたが、男は聞こえないかのように笑顔です。

(じつは、聞こえていなかったのだと後でわかりました ^^)

営業席を過ぎ、男は、こちらに向かってやってきます。

 

近くで見ると、黒の上下そろいの背広は、かなりくたびれれていました。
その肩から、これも使い古したカーキ色のショルダーバッグを下げています。
やや伸びかけた髪も、寝起きのまま、櫛を通していないように見えます。

 

一流の訳者の訳文と、遜色ないのでは!…とおもいました

男は、わたしのいる島の向こうどなり、
通りに面した窓際にある狩猟雑誌の編集部に向かいました。

狩猟雑誌の編集長からなにかのコピーを受け取り、ふりかえって、
わたしの前の不在カメラマンの机を、長い指で指さし、
「ここ、使っていい?」と聞きました。

(30歳前後?)

真っ黒に日焼けしているけれど、とうていスポーツマンとはみえません。

土方焼け、そんな感じでした。

 

斜視なのか、ふとした拍子に男の片方の黒目が離れ、白目の部分が目立ちました。
どうやら、意識すると直るようです。

男の、すこし変わった風貌にあっけにとられていたわたしが、
あわてて「あ、どうぞ」というと、

渡された欧文のコピーと原稿用紙を机に置き、
男は席に着くと、肩から机におろしたショルダーバッグから筆記具と辞書をとりだして並べました。

そして、訳文を原稿用紙に書きはじめました。
かなりの速さでした。

わたしは、編集長からの課題の推理雑誌をめくりながら、目の前の、翻訳に没頭している男を観察しました。

 

赤黒く土方やけはしているけれど、
高い鼻梁と直毛のやや長めのまつげの影になっているせいか、
斜視が目だたない男の目は、あんがい優しげに見えました。

服装はどうみても貧しげですが、この顔は苦労知らずに親の愛情を受けて育った顔ではないか、そんな気がしました。

男は、400字詰め2,3枚の訳文を、まもなく書き終えました。
その間、まったく辞書をつかいませんでした。

わたしは、
男の風貌と、辞書をつかわず短時間で訳し終えたその能力に興味を惹かれ、

「見せていただいていい?」
おもいきって声をかけた。

男は、ちょっとうれし気にうなずくと、すこしはにかみながら、
たった今、訳し終えた訳文原稿を、わたしに差し出しました。

最初の一行から、わたしは訳文にひき込まれました。
読み終えて、(すごい!)とおもいました。

(一流の訳者の訳文と、遜色ないのではないか…)
そう思ったのです。

男に原稿用紙を返しながら、感想をことばにするべきかどうか一瞬、迷いました。
しかし、けっきょく、なにもいいませんでした。

22歳のわたしが、10歳くらいも年上らしい男の能力について感想を述べるのは僭越だろうという分別が先にたったのでした。

「月間推理界」出会った翌年の5月号月間推理界

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