見上げる秋の夜空は漆黒で、月も星も見えません。
視線を下げていき目を凝らしても、暗い夜空は同じく暗い海原の果てに融(と)け、海と空のあわいさえわかりません。
海は、ときどき白く光る波頭と、ちっぽけなわたしたち人間を脅しつけるように、腹底からゆすりあげる鈍い波の音をとどろかせているばかり。
そんな海へ、ふたりは朽ちかけた小舟を押し出し、乗ろうとしていたのです。
小舟が、沈まずにどこかへたどり着ける見込みなどあるわけはなく、
世間知らずの若いわたしにさえ、無謀だとはわかっていました。
それなのに、なぜかすこしも怖くありませんでした。
人は、いつかかならず死ぬのだから…と。
でも、すぐ死ねるわけではありません。どんな辛酸が待ち受けているか知れたものではありません。
とはいえ、二十二歳のその時までだって、幸運に恵まれているとはとうてい思えないわたしの人生でした。
はやく捨てたいとさえおもっていたのです。
ところが、はやく捨てたいと思っていたはずのわたしの人生だったのに…、怖くなかったはずなのに…、
いざ決めるときには、足がすくみ、逡巡したのです。
そんなわたしの逡巡が消えたのは、
まわりのだれも気づこうとしない男の才能を、信じ、惜しんだからでした。
ただひとり人生を終えても同じ。
だったら、この男の才能を見守るためにわたしの時間を費やしてもいいんじゃないか。
そう思えたのでした。
ふたりが乗り込むと小舟は危なっかしく揺れ、このまま沈むのではないかとおもいました。、
けれども、朽ち舟は沈まず、ゆっくりと、前に進みはじめたのでした。
目の前にかざした自分の手のひらさえ見えない視界の中で、
若いわたしは、行く手の不安以上に、
才能をもちながら破滅に向かおうとしているとしか見えない男の、人生の伴走者としての道を、こうして自分がえらんだことに、ふかい安堵を覚えていました。
勝ち目があるかどうかなんて考えていませんでした。
最後まで迷いました。共に破滅するのではないかと思ったのです。
けれども、周りは気づかない男の才能が、だれにも認められることなく朽ちていくのは、とうてい耐えられない、最後に、そう思ったのでした。
世界中が男の才能に気づかなくても、わたしは男の才能を信じていました。
だったら、男の才能を信じているわたしが人生の伴走者になるべきではないか?
なにをしたってしなくたって、いつかかならず消えるわたしの人生なのだから。
男は32歳、わたしは22歳。
暗く無窮の空の下の、木の葉のように小さな舟の中で、ぬくもりは互いの体温だけでした。
●出逢い
半世紀以上もむかし。昭和44年、11月初旬。
水道橋駅から歩いて数分ほどの雑居ビルにあった小さな出版社のドアが開き、
男がひとり入ってきました。
廊下にわだかまっていた、初冬にしてはやけに冷たい空気が、男といっしょにサッと流れ込み、
ドアの右手奥の壁際の席にいたわたしの脚のまわりでうずをまき、冷たくつつみこみました。
読んでいた「月間推理界」のバックナンバーのページから顔を上げたわたしが見たのは、
やけに背の高い、色の黒い、ひょろりとやせた男でした。
くたびれたカーキ色のショルダーバッグを肩から下げ、ニワトリのとさかのように逆立った髪に長い首、黒っぽい背広上下は、
アイロンをあてた日から一年ほどはたっていそうに見えました。
男は、入ってすぐの営業席の男らにぺこぺこと頭を下げながらあいさつを交わし、こちらに向かってきました。
わたしのいる推理界編集部のとなり、「月間狩猟界」の編集部の編集長(小太りで色の黒さは入ってきた男と負けていない顔に、すこしあばたが目だっていましたが)から、数枚のコピーを受け取りました。
コピーを手にしたまま、振り返ると、わたしの前の席を、指で指し、
「ここ、つかっていい?」
と聞きました。
「月間推理界」出会った翌年の5月号
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