もう、半世紀以上もむかしのはなしです。
わたしは22歳でした。
昭和44年の11月初旬。
水道橋駅から歩いて数分ほどの雑居ビルにあった小さな出版社浪速書房のドアが開き、廊下から、初冬にしてはやけに冷たい風がサッと流れ込みました。
風は、ドアの右手奥の壁際の席で月間推理界のバックナンバーを開いていたわたしの机の下でうずをまき、薄いストッキングの両脚を冷たくつつみこみました。
フロアにはそれぞれいくつかの机で作られた島があり、ドアの右手に近いエリアから、営業部、グラビア誌編集部、60代のIさんがたった独りで作っている色読み物中心の月刊誌編集の席、狩猟誌「現代狩猟」編集部、そして、そのとなりの、わたしの座っていた「月間推理界」編集部に分けられていました。
ドアを入ってすぐの左手はパーテーションで区切られ、社長と経理兼秘書の席とその隣にかんたんな応接セットが置かれていました。
わたしは、読んでいた「月間推理界」のバックナンバーのページから顔を上げ、ドアのある左手に顔を向けました。
そのころにしてはやけに長身の、色の黒い痩せた30歳前後の男がひとり、通りがかった席の何人かに機械的にぺこぺこと頭を下げながら、島のあいだを歩いてきます。黒っぽい背広の襟から長い首がつきだしていました。
社長の遠縁に当たる営業の中年の男Aが「みやさん、…」と声をかけ、なにかいいました。
すると男は、あいまいな笑みを口元にただよわせ、歩きながらまた、なんどか小さく頭を下げました。
通りすぎる男の背にむかって、Aが、小さな声で(ミヤさんミヤさんおんまのまえで…)と歌い、周囲の何人かが薄笑いしているのが見えました。
理由はわからないけれど、なにか男を小ばかにしているらしいと気づき、わけもわからないまま、わたしは、彼ら、とりわけAの態度を不快に感じました。
しかし、当の本人は、なぜか、なにも感じていないようです。
後で知ったのですが、男は幼いころの中耳炎がもとで耳が遠かったのです。それで、彼らの揶揄するこごえの歌は聞こえなかったようでした。
男は「宮」という姓だったので、「トンヤレ節」で、揶揄したのでした。
男は「月間推理界」のすぐとなりの「現代狩猟」の編集部長の席に行くと、部長からコピーと原稿用紙を受け取りました。
そのとき、推理界編集部には、わたし一人でした。
編集長の井口泰子さんと、わたしより二つくらい上の女性編集員、男性カメラマンが所属していたのですが、その時は、新入社員のわたし以外は出かけていたのです。
男は、コピーを手にしたまま振り返ると、わたしの前の席、でかけているカメラマンの席を、細長い指で指し、
「ここ、つかっていい?」
と聞きました。
カメラマンが帰るのまでには数時間はあるはずだったので、断る理由はありません。
細い指がタバコのヤニで黄色くなっているのに目を止めながら、
わたしは
「どうぞ」といいました。
くたびれたカーキ色のショルダーバッグを肩から下げ、すくなくとも今朝櫛を入れたとはおもえないニワトリのとさかのように逆立った髪に長い首、黒っぽい背広上下は季節にしては薄手のうえ、アイロンをかけたのがいつだったのか分からないように見えました。
この寒気に、襟巻もしていません。
しかし、近くで見ると、年齢は30歳くらいにみえる土方やけのような黒い肌色の顔だちは、案外整っていました。
男は、ショルダーバッグを机の端に置くと、中から使い古したコンサイスの辞書を一冊とりだして右手におき、
中央に原稿用紙をひろげ、その左横に狩猟界編集長から受けとったコピーをおくと、シャープペンシルを手にしました。
わたしは、雑誌を読みながら、男のようすをちらちらながめました。
男はなめらかにシャーペンを走らせていきます。
十分ほどだったでしょうか。
男は、数枚の原稿を訳し終えました。
その間、用意した辞書は、一度も手に取りませんでした。
「読ませてくださる?」
わたしは席を立って男のそばに行き、訊きました。
男はすこしうれしそうにちいさくうなずき、まるで少年のようにはにかんだ顔で、原稿用紙を差しだしました。
わたしは、原稿をうけとりながら、男の顔を見ました。
すぐそばで、ほぼ真上から見る男の顔は、色が黒いというより土方やけみたいな肌色でしたが、額からまっすぐな鼻梁と、直毛のまつ毛の下のふせかげんの目が、あんがい優しそうで、親から大事に育てられた人ではないかという気がしました。
訳文は、すこし癖のある文字で書かれていました。
一読し、わたしはおどろきました。
それはとても読みやすい日本語になっていたのです。
いわゆる訳文くささや、不自然な感じのまったくない、ごく自然な日本語に訳されていたのです。
全く身なりに無頓着にみえる男の、端正ともいえそうな顔を、わたしは改めて見直していました。
それが、Yとわたしの出逢いでした。
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