翌年の春…。
Yとわたしは、ときどき待ち合わせてお茶や食事をするようになっていました。
待ちあわせるのは、たいていは「花四季」という喫茶店でした。
花四季は、水道橋と神保町の大通りから小道をはいった裏通りにありました。
浪速書房の社員は、たいてい仕出し弁当か出前をとったし、出かけるとしてもごく近くの店ですますことが多かったので、
すこし離れた場所にある「花四季」で、バッタリ出あうことはありませんでした。
そういうわけで、とくべつ隠していたわけではなかったけれど、Yとわたしの交際は、長い間、社内の、だれにも気づかれませんでした。
「花四季」は、60代の父親と30代の丸顔の娘とふたり、ちょっと不愛想な親子がやっている喫茶店でした。
うどんをケチャップであえたような「ナポリタン」が看板料理で、けっしておいしいといえないのは、コーヒーも同様でした。
古びた木のイスとテーブルがならんだ、10人も入れば満員のすすけた狭い店内を、昼も夜も黄色っぽい電球が、まるで舞台の書割みたいに陰気に照らしていました。
椅子には、かなりくたびれて綿が薄くなった赤い表布の手製らしい座布団が、縫い付けられたひもで括り付けられていましたが、サイズがすこし小さめなので、
その座布団で座りごこちがよくなるということはほとんどないようにおもえました。
けっして清潔とはいえないこの店が、昭和40年代のそのころ、Yとわたしには、くつろいで会える数少ない場所でした。
当時、安い店が多かった水道橋と神保町に近いそのかいわいでも、ほかよりいくらか安い店だったし、
Yとわたしにとって、安いというのは、ほぼ必須条件でした。
Yは、いつだって小銭しかもちあわせていなかったし、すこしはましなわたしにしても薄給だったうえ、給料の6割以上実家に入れていたので、つかえる小遣いは、とてもかぎられていたのです。
そういうわけで、
安価な、食事を兼ねた長くいられる店、
それが、当時、Yとわたしが花四季で多くの時間を過ごした理由でした。
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